著述家の喜びがいろいろある中でも、自分の書いたものが、学識ある他の著述家諸氏によって、尊敬の念をもって引用されているのを知る喜びにまさるものはないと、私はかねて聞いております。ところが、そうした大きな喜びを、私は、今日に至るまでほとんど経験しておらないのです。これはけっして自惚れ心から申すのではありませんが、私は、ここ丸二十五年ものあいだ、毎年暦を発行しつづけ、その方面では、これでも相当名を知られている者であります。それにもかかわらず、同じく暦を発行しておられる同業者の諸氏は、どういうわけのものか、私にたいして賞讃の言葉をひどく出し惜しんでおいでですし、他の方面の著述家諸氏に至っては、私のことなど、まるで問題にも何もして下さらない有様なのです。ですから、自分の書いたものが、いくらかでも物質的な利益をもたらしてくれたればこそ、よかったものの、そうでもなかったら、賞讃の言葉があまりにも乏しいところから、私はとうの昔に失望落胆してしまったことでしょう。
ところが、そのうちに私は、この自分にも見所があると、一番よく分って下さるのは、世間一般の方々だ、と思いこむようになりました。なぜと言って、世間の方々は、私の書いたものを買って下さるし、それに、ふらりと出歩いていますと、私の顔を見知っている者が一人もいないところで、「貧しいリチャードの言葉を借りて言えば」と、最後に一言ことわりながら、私の暦の中の格言を、皆さんがあれこれ口になさるのを耳にしたことがたびたびあるからです。それで、私はいささか意を強くしました。皆さんが私の教えを尊重して下さっておられることが分ると同時に、格言の作者であるこの私にたいして、ある程度、尊敬を払って下さっておられることを知り得たからであります。ついでながら、ここで白状いたしますと、世間の皆さんが私の作った金言を心にとどめ、折にふれて口にして下さる習慣を助長したいと思い、私自身、自分の格言をいかにもまじめくさって引用することも、時にはあるのでした。
こういう次第ですから、これから皆さんにお話し申し上げる出来事から、私がどんなに大きな満足を得たか、お察し願いたいと思います。最近のことです。私は、商品の競売場に人が大勢集まっているのを見て、馬をとめました。まだ競売の時刻にならないもので、集まった皆さんは、時世が悪くてどうも困ると、しきりに話し合っておいででしたが、やがてそのうちの一人が、質素で小ざっぱりとした身なりをした白髪の老人に声をかけました。
「エイブラハムご老人、失礼ですが、あなたは当節の世の中をどうお考えになります?こう税金が高くては、この国ももうおしまいなのではないでしょうか。一体どうすれば、この高い税金を払って行くことができましょう。ひとつ、いい知恵を貸していただけませんでしょうか」。すると、エイブラハムと呼ばれた老人は、立ち上って答えました。
「わたしの知恵を借りたいとおっしゃるのでしたら、よろしい、簡単明瞭なところをお聞かせしましょう。『賢者には一言にして足る』、また、『言葉多くしても桝目にならず』ですからな、貧しいリチャードの言葉を借りて申せば」。
一同は、ぜひお考えを聞かせてほしいと、声を合わせて頼み、そのまわりを取り囲んだので、老人は、次のような話を始めたのでした。
皆さん、あなた方もおっしゃる通り、今日わたしたちは、たいへんな重税を課せられております。しかし、それにしても、わたしたちが収めねばならぬ税金が、ただ政府が課しているものだけというのでしたら、比較的容易に支払うことができもしましょう。ところが、わたしたちは、ほかにもいろいろな税金を収めねばならず、また、人によっては、政府が課している税金とは比べものにならぬほど重い税金を背負っておるのです。つまり、怠惰であるために二倍もの、虚栄心を持つために三倍もの、愚かであるために四倍もの税金を背負っておるのです。ところが、この種の税金は、収税吏の方がかりに減税を認めて下さったにしても、軽くなることもなければ、ましてや完全に免除されるなど、とうていできた相談ではありません。しかし、まあ、よい忠告に耳を傾けることにしましょう。そうすれば、多少の工夫がつかないものでもありません。「神は自ら助くる者を助く」と、貧しいリチャードが1733年度の暦の中で申しておりますから。
ところで、自分のものであるはずの時間の十分の一を提供して、それをお上のご用に役立てよ、などと国民に要求する政府があったとしたら、たしかに過酷な政府と思えもしましょう。ところが、怠惰というものは、わたしたちの多くの者に、はるかに多くのものを要求するのです。それは、完全なものぐさ、つまり、何一つしようとしないでいるために費す多くの時間のほかに、愚にもつかぬ営みや何の役にも立たぬ遊びに費す時間のことを考えてごらんになれば、お分りになるでしょう。ものぐさは病気を招き、その結果、大事な寿命をちぢめないではおきません。「ものぐさは、錆と同じで、労働よりもかえって消耗を早める。一方、使っている鍵は、いつも光っている」のですから、貧しいリチャードも申しておりますように。それから、「人生を大切に思うと言われるのか。それならば、時間をむだ使いなさらぬがよろしい。時間こそ、人生を形作る材料なのだから」とも、貧しいリチャードは申しております。
そういえば、わたしたちは、何と多くの時間を必要以上に睡眠に使っていることでしょう、貧しいリチャードの言葉を借りれば、「眠っている狐には、鶏は一羽もつかまらぬ」ことも、「寝たいなら、墓場に入ってからで少しもおそくはない」ことも忘れて。時間というものが、この世の中でもっとも貴重なものであるとしますなら、貧しいリチャードも申しておるように、「時間の浪費こそ、一番の贅沢」に違いありません。別の場所で申しておるように、「時間の失せ物は、間違っても見つかることなし」ですし、わたしたちがふだん言っている「まだまだ時間は十分」は、「いつもきまって時間の不足におわる」からです。こういう次第ですから、お互いに元気を出して何か仕事を、それも有益な仕事をやろうではありませんか。それだけの覚悟を持って勤勉でありさえすればめんどう少なくして一層多くの仕事もできようというものです。「ものぐさは万事を難くし、勤勉は万事を容易にす」と、貧しいリチャードは申しております。また、「朝寝する者、一日じゅう駆け足、夜になっても仕事に追いつかぬ」、「怠け者の足ののろさよ、貧乏がすぐに追いつく」と、その暦に書いてありますし、さらに付け加えて、こうも申しております、「仕事を追い立てよ。仕事に追い立てられるな」。それから、
「早寝早起き、健康のもと、財産を殖やし、知恵を増す」。
というわけですから、時世がよくなればいいなどと、ただ願ったり期待するだけで、いったい何になりましょう。元気を出して働いてこそ、今の時世もよくなってきもするのです。貧しいリチャードも申すように、「勤勉な者は願をかけるに及ばず」、「希望に生きる者は空腹に死す」のです。「骨折りなきところに利得なし」、「土地を持たぬとあらば、おのが手足に助けを借りよ」です。土地を持っていましたら、それこそひどい重税を課せられることでしょうから。ところが、貧しいリチャードがつづいて申しておるように、「商売を持つ者は財産を持つ」、「職業を持つ者は有利で名誉ある官職を持つ」ことになるのです。ただし、商売を営んでいるのでしたら、その商売に精を出さねばなりませんし、職業にたずさわっているならいるで、これまた大いに努めねばなりません。さもないと、せっかくの財産も官職も、税金を支払う上には何の役にも立たないことでしょう。その代り、勤勉でありさえすれば、飢える気づかいは少しもありません。貧しいリチャードも申しておるように、「働き者の家には、飢えがのぞきこむことはあっても、あえて入りこむことはけっしてない」からです。入りこむといえば、そのような者の家へは、執達史も警官も入りこむことはありません。「勤勉は借金を支払い、自暴自棄は借金を殖やす」からです。
宝物がいっこうに見当らないからとて、あるいは、金持の親戚で遺産を残してくれる者が一人もいないからとて、それがいったい何でありましょう。貧しいリチャードも申すように、「勤勉は好運の母」であり、「勤勉な者には、神、何物をも惜しみ給わず」なのです。ですから、
「怠け者が寝ている間に深く耕せ、売ったその上に、手もとにおく余分の取り入れが得られよう」
と、貧しいリチャードは申しております。今日という日のうちに働くことです。明日になったら、どんな妨げが起こってくるか、分ったものではありません。ですから、貧しいリチャードは、「今日の一日は明日の二日に値す」とも、「明日なすべき事あらば、今日のうちにせよ」とも申しております。
もしもあなたが人に使われる身であるとして、そのような場合、仕事を怠けているところを善良なご主人に見つけられるようなことがあったら、あなたは恥ずかしくお思いになるのではないでしょうか。それとも、一本立ちの身分だ、とおっしゃるのでしょうか。それならばそれで、「怠けているところを自分自身に見つけられるのを恥じよ」と、貧しいリチャードは申しております。
ご自分のためにも、ご家族のためにも、祖国のためにも、さては国王陛下のおんためにも、なさねばならぬことが山ほどある以上、夜が明けるとともに起き出すことです。「太陽に見下ろされて『恥知らず、ここに横たわる』と言われるな」。道具を使うからには、手袋など手にはめないで使うことです。貧しいリチャードの申しておる「猫に手袋、風はとれず」をお忘れになってはいけません。
たしかに、なすべきことは山のようにあります。それからまた、あなたの力が足りないという場合も、あるいはおありのことでしょう。ですが、そうであったにしても、着実に仕事をおつづけになることです。そうなされば、きまって大きな効果が上るものなのです。現に、「点滴石をうがつ」、「勤勉と忍耐、ついに鼠、錨づなを食い切る」、「小さな一撃でも、たび重なれば、大木をも倒す」と、何年度のでしたか忘れましたが、貧しいリチャードはその暦の中で申しております。
ところで、どなたでしょうか、あなた方の中で、「人間、暇を楽しんではいけないのだろうか」とおっしゃったのが、この耳に聞こえたような気がします。その方に、貧しいリチャードの申しておることをお聞かせしましょう。「暇がほしくば、時間を上手に使って作れ」。いま一つ、「1分という時間さえ容易に得られぬ以上、一時間もの時間をむだに使うな」。暇とは、何か有用なことに使う時間を指して言いますが、そういう意味での暇は、勤勉であって初めて得られるのでして、怠け者にはけっして得られるものではありません。ですから、貧しいリチャードは申しております、「閑暇の生活と怠惰の生活とは、まったくの別物」と。あなた方は、働くよりも怠けるほうが気楽だ、とでもお考えなのでしょう。とんでもありません。貧しいリチャードも申しておるように、「難儀は怠惰から生まれ、大きな労苦は無用の安逸から生まれる」のです。「骨折の仕事は何一つせず、小才を働かせるだけで暮して行こうとする者がたくさんいるが、そうした人たちは、資本がなくなり、破産は必定」。一方、勤勉は、安楽と富と尊敬をもたらしてくれるのです。「快楽は、逃げればかえって追いかけてくる」、「勤勉な紡ぎ手には、着がえの着物がたくさんできる」。
「羊と牛が、一頭ずつ自分のものになった今では、誰も彼もが、おはようと朝の挨拶をしてくれる」。
このように貧しいリチャードは申しておりますが、どれもこれも、もっとも千万な言葉です。しかしながら、わたしたちは、勤勉であると同時に、まじめで、着実で、注意深くなければならず、自分自身の仕事は自分の目でもって監督し、あまり人任せにするようなことがあってはなりません。貧しいリチャードを引用しますと、
「何度も移しかえられる木で、何度も引越しを繰り返す家で、動かぬ場合ほど栄えたためしは一度もない」。
それから、「引越し三度は丸焼け同然」、「店を守れ。さすれば、店、汝を守らん」とも申しております。また、「仕事をやり了せたくば、自ら行け。やり了せたくなくば、人に行かせよ」とも、
「畑仕事で身代起こしたく思わば、鋤にせよ鍬にせよ、自ら使え」
とも申しております。
それから、「主人の目は、その両手にもまして多くの仕事をやってのける」とも、「注意の不足は、知識の不足にもまして多くの損害を招く」とも、また、「人を使っていながら監督を怠るのは、財布の口を開けたままその前においておくようなもの」とも申しております。
他人を信用して、一切をその人の手に任せるようなことがありますと、身の破滅をきたす場合が少なくありません。貧しいリチャードの暦も申しておるように、「俗事に関する限り、人が救われるのは、他人を信頼しないことによってであり、神を信仰することによってではない」からです。これに反して、自ら進んで自分の面倒を見ようとするのは、有利なことです。貧しいリチャードも申すように、「力は勇気ある者に」、「至上の幸福は有徳の士に」授かると同様、「学問は勉強家に、富は用心深い者に」授かるからであり、また「忠実で、しかも自分の気に入るような召使いがほしくば、自ら自身の召使いになれ」であるからです。
それから、つねに注意深く、用意周到であれ、どのような些細な事柄についても、と勧めてもおります。時に、「わずかな怠りでも、大きな災いを招きかねない」からです。さらに付け加えて、「釘が一本ぬけて踏鉄がとれ、蹄鉄がとれて馬が倒れ、馬が倒れて乗っていた者が命をおとした」と申しております。つまり、敵に追いつかれて殺されてしまったのですが、そのようなことになるのも、踏鉄の釘一本に、ほんのわずかにせよ、注意を怠ったからなのです。
さて、皆さん、勤勉であれ、それから、自分の仕事に注意を怠るな、といった話は、これくらいにしておきましょう。しかし、勤勉の徳による成功を一層確実なものにしたいとお思いでしたら、勤勉である上に、節倹の徳を実行していただかねばなりません。もしも稼ぐだけで残すことを知らなければ、「一生涯、いくら汗水流して働いても、いよいよ死んだ時には、一文の金も残るまい」、「台所が肥えれば、遺言書は痩せる」と、貧しいリチャードは申しております。
「せっかくできかけたのに、身上をつぶす者が少なくない、茶に目のない女、紡ぎや編み物の仕事を怠り、ポンスに目のない男、木を切り、木を割る仕事を怠る」。
ですから、金持になりたいとお思いでしたら、貧しいリチャードが別の年度の暦で申しておるように、「稼ぐだけでなく、残すことを考えよ。西インドを手に入れながら、スペインはついに富める国になれずにおわった。入るよりも、出るほうが多かったから」です。
こういう次第ですから、愚かなむだ使いはおやめになることです。そうなされば、やれ時世が悪いの、やれ税金が高いの、やれ所帯に金がかかりすぎるの、などといった不平の種はずっと少なくなることでしょう。貧しリチャードも申すように、
「酒に女、賭博にぺてん、財産痩せて、欲だけつのる」
からですし、また、「道楽一つの金で、子供二人が育つ」からです。あるいは皆さんは、茶やポンスを少しばかり飲んだり、少しばかり金のかかるものを食べたり、少しばかりきれいな着物をきたり、少しばかりましな遊びを楽しんだりしても、それがたまさかのことだったら、そう大したことでもあるまいと、お考えになるかもしれません。しかし、貧しいリチャードの次の言葉をお忘れにならぬように、「塵もつもれば山となる」。それから、「わずかな出銭に気をつけよ。小さな漏れ口が大きな船を沈める」。また、
「美食家の末は乞食」。
さらに、「うまい物、作る阿呆に食べる利口者」とも申しております。
皆さんは今、ここ、美しい着物や小ぎれいな小間物類を競売する場所に集まっておいでです。皆さんは、これらの品物を結構な買い物とおっしゃっておられます。しかし、用心なさらぬと、人によっては、結構どころか、とんだ災いにならないともかぎりません。皆さんは、ここなら、安く手に入りもしよう、と思っておられる。なるほど、あるいは元値より安く手に入るかもしれません。しかし、必要もないのにお買いになるのでしたら、かならず高いものにつきます。貧しいリチャードの言葉をお忘れにならぬように、「買う必要もないものを買ったら最後、やがてそのうちに、なくてはならぬものまで売り払わねばならぬことになる」。それから、「安いものには、へたに手を出すな」とも申しております。つまり、安いと言っても、ただそう見えるだけで、実際には高いのかもしれませんし、また、へたに安物買いをすると、懐工合が窮屈になって、得よりそ損をすることがあるというのです。現に、別の個所で、「得な買物をして、身上をつぶした者が多い」と申しております。
また、貧しいリチャードは、「金を出して後悔を買う愚か者」と申しております。ところが、暦の言うことを聞こうとしないために、そうした愚かなことが、毎日、諸方の競売場で繰り返されておるのです。
たしかに、貧しいリチャードも申すように、「賢い者は他人の災いで悟り、愚かな者は自らの災いによって目がさめぬ」のです。一方、「他人の危険によって思慮深くなる者は幸いなり」なのです。身を美しい着物で飾ろうとしたばかりに、たえずひもじい思いに苦しみ、その上、妻子を飢えにまで追いやった者が、昔から少なくありません。貧しいリチャードも申すように、「絹としゅす、もみとビロード、台所の火を絶やす」なのです。こうした絹とかそういったものは、生活の必需品ではありません。いえ、重宝な物とさえ、まず申せません。それですのに、見栄がいいという、ただそれだけの理由で、何と多くの人たちがほしがることでしょう。こうして人間の不自然な欲求が、自然の欲求を次第に上回って行き、その結果、貧しいリチャードの言葉を借りれば、「本当の貧乏人一人にたいして、贅沢な貧乏人が百人」というようなことになるのです。
このような、また、その他、同様な贅沢に耽るもので、紳士と呼ばれる身分の高い方々でも、貧しい境遇に陥って、かつてはそれら紳士の方々から軽蔑されていたのが、勤勉と節倹の徳を実行して、その社会的身分を失わないできた人々から、借金をしなければならなくなるのです。そうなってみますと、貧しいリチャードの申すように、「自分の足で立っている農夫のほうが、跪いている紳士よりも背が高い」ことが、はっきりと分ります。思うに、そうした紳士の方々は、自分が働いて手に入れたものでもない財産を、親からゆずられて少しは持っておられたことでしょう。ところが、「いまは昼間、いつになっても日は暮れはせぬ」とか、「これだけたくさんあるか「少しぐらい使っても、気にするには及ばない」とかいうふうにお考えになる(貧しいリチャードに言わせると、「二十シリングの金と二十年の歳月は、いくら使っても、使い切るということがない、と考えるのは、子供と愚か者だけ」なのです)。しかし、「いつも取り出すばかりで、補うことをしなければ、金持の米びつも、しまいには空になる」のです。そうなって初めて、貧しいリチャードの言葉を借りれば、「井戸かれて水の貴きを知る」のです。その忠告に初めから従っていたら、それくらいのことは、とうの昔に分っていていいはずです。「金銭の貴さを知りたくば、行きて金を借りてみよ」です。なぜと言って、「金を借りに行く者は、悲しみを借りに行く」のだからです。また、そんな連中に金を貸す者は、いよいよ返してもらいに行ったさい、やはり悲しい目にあわないではいないでしょう。
貧しいリチャードは、つづけて忠告してこう申しております。
「愚かしい着道楽、大きな身の災い、道楽心と相談する前に懐と相談せよ」。
また、「虚栄心は、貧乏と同じく、乞食のごとく求めてやまず、しかも厚かましさの点では、貧乏のはるか上を行く」とも申しております。美しいものは、一つでも買ったら最後、それに合わせて身なりを飾ろうとして、さらに十も余計に買わないではいられなくなるものです。ですが、貧しいリチャードも申しておるように、「最初のほしい気持を抑えるほうが、あとから次々に起こってくるほしい気持を全部満足させるよりも易しい」のです。それから、貧しい人が金持の真似をするのは愚の骨頂で、ちょうど蛙が腹をふくらませて、牛に負けまいとするのと同じです。
「大きな身代なら、新しい冒険に乗り出すもよし、小さな船なら、岸の近くを離れぬこと」。
とは言うものの、大きな身代だからとて新しい冒険に乗り出すのは愚かなことで、じきに報いがやってきます。貧しいリチャードも申しておるように、「昼飯の見栄、夕飯の侮り」だからです。また、別の個所で「朝飯のおごり、昼飯の貧乏、夕飯の零落」とも申しております。
けっきょくのところ、それほど多くの危険を冒し、それほど多くの苦労までして、そんなふうに身なりに見栄をはって、いったい何の役に立つというのでしょう。健康を増進させてくれもしなければ、苦痛を和らげてくれもせず、その人の値打があがるわけでもなし、いえ、かえって他人の妬みを招き、不幸の訪れを早めるだけにすぎません。
「蝶とは何か。つまるところが、着飾った毛虫というだけのこと、まことの姿は美服をまとった洒落男」
と、貧しいリチャードは申しております。
それにしても、こうした、なくてもよい贅沢品を借金してまでも買い求めようというのは、まったく気違い沙汰と申すよりほかはありません。ここの競売場では、六ヵ月間の延べ払いが認められております。あなた方の中には、その点につられて出てこられた方もおありのことでしょう。即金で支払う余裕はないが、そういう条件なら、現金がなくても、いますぐにでも身なりを飾ることができようから、とお考えになって。もしそうでしたら、それはとんでもない考え違いです。なぜと言って、いったん借金をこしらえようものなら、いったいどういうことになるか、まあ、考えてもごらんなさい。人から金を借りることは、その人にご自分の自由を売り渡すのと同じことなのです。つまり、期限がきても、返済ができないとなると、面目がなくて債権者に顔を合わせるのが辛くなります。話しかけるにしても、たえずびくびくもので、愚にもつかない、情けない、浅ましい言訳をあれやこれや口にし、そうしたところから次第に誠実さを失くして行って、けっきょく卑しい真っ赤な嘘を平気でつくようなことになるのです。現に、貧しいリチャードも申しておるように、「借金は嘘の始まり」ですし、同様にまた、「借金の馬に嘘が乗る」からです。いったい自由の身に生まれたイギリス人というものは、相手が誰であろうと、人に顔を合わせるのを恥じたり、話しかけるのを恐れたりしてはならないはずです。ところが、貧乏は、しばしばわたしたちから、気骨と道義心を根こそぎ奪い取ってしまいます。貧しいリチャードが正しくも申しておるように、「空の袋は真直には立ちにくい」のです。もしここに、紳士淑女に似せた身なりをすべからず、その禁を犯す者は、禁固ないし苦役の刑に処す、といった布告を出す国王なり政府なりがあるとしたら、あなた方はどうお考えになります?われわれは自由の身で、それぞれ好むがままの身なりをする権利がある、かかる布告は基本的人権を侵害するものであり、かかる政府は専制政治のそれにほかならぬ、とおっしゃるに違いありません。ところが、それでいてあなた方は、借金してまでも紳士淑女の用いる美服を買い求めようとなさるのですから、いま申し上げたのと大差のない圧制を、ご自分から進んでお受けになるというものです。なぜと言って、あなた方の債権者は、万一返済ができないような場合には、終身禁固にするなり、奴隷として売り払うなりして、意のままにあなたの自由を奪い上げる権利を持つからです。延べ払いというので、これは得だと思って買物をなさる時、あなた方は、支払いのことはおそらく頭においておられないでしょう。ところが、貧しいリチャードは、「貸し主は、借り主よりも物覚えがいい」と申しておりますし、また、別の個所で、「貸し主なる連中は、御幣かつぎが大好きで、きまった期日や期限のことをえらくやかましく言う」とも申しております。返済の期日というものは、知らないうちにやってくるものですし、返済の請求は、こちらにまだ用意のできないうちになされるものなのです。また、借金のことをたえず忘れずに覚えておられる場合にしても、初めのうちこそずいぶん先の話のように思えた期限も、時がたつにつれてまるで短いものに思えてくるものです。言ってみますと、時間が、その肩にだけでなく、踵にまで羽を生やしたように思えてくることでしょう。ですから、貧しいリチャードは、「復活祭に支払わねばならぬ借金を背負っている者には、四旬節もたちまちのうちに過ぎて行く」と申しております。ですから、貧しいリチャードも申すように、「借り手は貸し主の奴隷、債権者は債務者の主人」である以上、身を束縛する鎖などを相手にせず、自由を失うことなく、あくまでも自主独立を保ちつづけられることです。動勉の徳によって自由を、節倹の徳によって自由を享受されることです。あるいは、現在のところ、懐工合がいいから、少しぐらい贅沢をしてもいっこうにひびかない、とお考えになっておられるかもしれません。しかし、
「できるあいだに老後と不時にそなえよ、朝日は一日じゅう照っているわけでなし」なのです。
貧しいリチャードの申すように、儲けはいっときのことで定めないものであるのに、出銭は生涯つきまとう変りないものですし、「かまど二つを築くは易く、かまど一つに火を絶やさぬは難し」です。ですから、「明日、借金を背負って起きるより、今夜の食事を抜きにして床につけ」ということになります。
「得られるものは得よ、得たものは手放すな。これぞ飴を黄金に変え得る石」と、貧しいリチャードは申しております。そしていったんこの石を手に入れさえすれば、やれ時世が悪いの、やれ税金が払い切れないのなどと、不平をこぼされることは、二度と再びないに違いありません。
皆さん、この教訓は、道理にかないもし、賢くもあります。しかしながら、何と申しても、自分の勤勉、節倹、慎重、これらはいずれもすぐれた美徳には相違ありませんが、あまりにそればかりを頼りになさってはいけません。なぜと言って、せっかくの美徳も、神の祝福がなければ、何の役にも立たないでしまうことがあるからです。それゆえ、心をつつましく保って神の祝福を求める一方、現在、神のみ恵みにあずかっていないと思える人々にたいして、無慈悲な態度に出ることなく、これを力づけ、助けてあげるように心がけて下さい。ヨブがあれほど苦しい目にあいながら、しかものちには栄えたことをお忘れにならぬように。
さて、最後にいま一言。「経験の経営する学校は月謝が高い。だが、愚か者はそれ以外の学校へは上ろうとしない。おまけに、上っても、ろくなことは覚えない」のです。たしかに、貧しいリチャードも申すように、「忠告は与えることはできても、処世の術は与えることはできない」に違いありません。しかし、その一方、「助言を容れざる者は度し難し」、また、「道理に耳を傾けざる者は、かならずや手きびしき仕返しをうけん」という、貧しいリチャードの言葉をお忘れにならぬように。
こう言って老紳士は、その長い演説をおえました。聞いていた人々は、まったくその教え通りであることを認めました。ところがどうでしょう、話がおわったとたん、まるでそれがありふれた説教ででもあったかのように、老人の教えとは正反対の行為に出たではありませんか。ちょうど競売が始まり、それと知ると、人々は、老人の戒めも税金の心配も何も彼も打ち忘れて、めいめい途方もないむだ金を使い始めたのです。私は、この有徳の老人の話を聞き、私の暦を隅から隅まで調べつくしているばかりか、この二十五年間に、私が折にふれて、勤勉その他の項目について述べてきたことを完全に自分のものにしているのを知りました。何しろ、あとからあとから私の名前を引き合いに出す始末なのですから、これがほかの者でしたら、誰にしたってうんざりしたに違いありません。しかし、自惚れ心の強い私は、大いに満足を覚えました。もちろん、老人は、貧しいリチャードの教訓と申しましたが、実を言いますと、私自身が考え出したのはその十分の一もなく、他はすべて古今東西の名言を適当に拾い集めてきたにすぎないことを忘れていたわけではけっしてありません。しかしながら、私は、そうした名言を他人が口にするのを耳にして、あだやおろそかにはすまいと決心し、初めは上着を新調しようと思ってラシャを買うつもりでいたのを、古い上着でいましばらく我慢しようと思い直してその場を立ち去ったことでした。
読者の皆さん、あなた方も私と同様になさったら、利するところは、私に劣らず、多いことでしょう。では、いつまでも皆さんのお役に立つことを祈りつつ
1757年7月7日
リチャード・ソーンダーズ
リチャード・ソーンダーズはベンジャミン・フランクリンのペンネーム
